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岩手県医療局労働組合
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子育てしながら働き続ける(なければ作ろうと保育所設置)

◆1952年

盛岡赤十字病院に保育室設置

◆1958年

正式に職場保育所に認められる

◆1964年

大船渡病院支部でドレミ保育所を設置

◆1965年

南光病院支部で、医療局に建物を公に提供させた保育所第1号を設置

◆1967年

遠野病院支部で民家を借りて保育所設置
その後、北上、釜石、花巻厚生(当時)、大槌、北陽(当時)、遠野、福岡(現・二戸)、胆沢、江刺、南光、久慈病院支部で設置

◆1973年

厚生省の予算に院内保育所への補助金を計上させた

◆1975年

補助金の受託団体として財団法人県医労健生会を結成

◆1992年

 産前休暇8週間(8月1日実施)看護婦確保法・基本指針で、「院内保育所の整備」が定められた

◆1996年

園児減少から大槌病院支部かもめ保育所を閉所

◆1999年

園児減少から北陽病院支部さくらんぼ保育所を閉所

 労働組合や運営委員会で保育所を経営している所は、全国で少数派となっています。看護婦確保法・基本指針が示すとおり、当局の責任で看護職員等の福利厚生施設としての充実が求められています。その上で、保育所の運営については、親や支部もかかわった運営委員会で行う方向が求められています。


 看護婦は独身で、看護婦寮に住み込み。50年前の県立病院でもこうしたことが当たり前でした。その後、結婚の自由がかちとられ、少なくない看護婦が出産後も仕事を辞めないで働き続けるようになると、保育所の問題が大きく取り上げられてきました。看護婦の共働きは、変則勤務もあり、大変な負担となります。自動車の普及もまだまだという時代です。看護婦である妻が、出勤途中の駅のホームに子どもを置き、時間差の列車で駅に着いた夫が子どもを抱いて家に帰

る、というアクロバットのような工夫、子どもを背負って仕事をするなどで、子育てと仕事を両立させていました。

大船渡病院支部 ドレミ保育所(開設当初)

さあ食べよう(1995年5月 中央病院支部 あゆみ保育所)

 当時の保育所は、ゼロ歳児保育がなく、延長保育などもありませんでした。 公立保育所に対してゼロ歳児を受け入れる運動をするとともに、病院内に保育所を作らせる運動が全国で広がりました。
 県医労での保育所の第1号は、大船渡病院でした。 入所対象者が増えるなかで病院当局に設置を要求。 「院内に保育所を設ける考えはない」「場所もない、仮に設けても子どもに感染の恐れが多い」などと逃げる病院当局に対し、1963年に大船渡病院支部として保育所を設置。 院内の施設を貸さないという病院では民家を借りて設置に踏み切った支部もありました。 その後、寮の一階部分の使用、光熱水費、健康診断等の当局負担などを実現してきました。 いずれも病院支部が運動の中心になり、運営委員会、 父母会などを組織し、 運営に当たりました。 千厩病院支部では、 地域の女性労働者とともに公立保育所の設置を運動し、1970年に建設させました。 また、日本医労連としても保育所運動を進め、厚生労働省の補助事業として院内保育所への補助を実現させてきました。
 しかし、少子化の中で、病院職員の子どもの数も激減し、大槌、北陽(当時)病院支部の保育所が閉所をせざるをえない状況となり、 事業の継続が困難になっている保育所もあります。