職場の運動があれば、法律がなくても妊産婦を守ることができました。しかし、職場の運動がないところでは、せっかくの制度が絵に描いた餅になっていないでしょうか。どの病院、職場でも、妊娠・出産が心から喜ばれるようにしていきましょう。 <死産の場合>
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1960年頃の県立病院では、まだ病棟の夜勤体制が「宿直制」という病院が多くありました。(ちなみに、すべての県立病院で三交替にさせたのは、1994年10月のことです。)「一九五四年当時一緒に宿直していた看護婦が、お腹が痛いというので先に帰したら、翌日出産した(永井丈夫元委員長談)というように、妊娠していでも出産の直前まで宿直していました。もちろん、宿直明けの午後からの休みもなく、妊産婦の労働軽減も制度としてありませんでした。
共稼ぎで、子育てをしながら働くことはとても困難でした。共稼ぎでの子育て第一号は、志和病院(現・紫波病院)の看護婦でした。1963年、出産した看護婦組合員が辞めないで働けるようにと、半年間、宿直をみんなで交替し、1年間宿直をさせない取り組みがありました。また、三交替の病棟だった花巻厚生病院支部でもたたかいがありました。1人での15日夜勤のなか、家庭を持つ母親看護婦がガリ版で「夜勤記録」を文集にして発行。「ネコの鳴き声にもおちおちしてられない」「夜勤3日目から夜勤様顔 貌となり、食欲減退」「重症患者がいるとトイレにも行けない」など、一人夜勤の実態を全組合員に配布し、夜勤の実態を知ってもらい、支部の重点要求にして支部団体交渉を開催。1965年に看護婦17人の増員をかちとり、夜勤2人制、産後1年間の夜勤免除を実現しました。翌年には、二戸療養所支部(旧・北陽病院支部)で産前6ケ月・産後1年の夜勤免除、中央病院支部、気仙病院支部(現・大船渡病院支部)、遠野病院支部で、それぞれ産後1年の夜勤免除を実現しました。 労働基準法で産前・産後の夜勤・超過勤務・休日労働の免除を定めたのは、1986年になってからです。 産前・産後の休暇は、50年前の産前・産後それぞれ6週から、現在では産前8週(多胎妊娠の場合は14週)・産後8週にさせました。また、母体保護休暇、つわり休暇、妊婦健診休暇を実現してきました。
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