女性の権利が拡大される一方で、生理休暇など名前だけになっている権利もあります。あらためて各職場で権利の学習をし、みんなで声を掛け合い、権利を行使する取り組みが求められています。 |
県医労は、病院の中に組織された労働組合として、たくさんの女性組合員が加入しています。 一九五五年の第5回定期大会以降、各支部婦人部が組織され、年1回の婦人部指導者研修会を開催する中で、 一九五八年第9回定期大会で青年部、婦人部結成のための規約改正を行い、翌年10月12日に、本部婦人部が結成されました。結成以前から、第2回母親大会(東京 一九五六年)、第2回働く婦人の中央集会(東京 1958年)などに代表を派遣。地域の女性運動の中心をになっていました。また、各支部、分会では生理休暇取得などをたたかっていました。
結成された婦人部では、女性の権利確立、地位向上等で活動を開始しましたが、最初は基本に戻って生理休暇を取ろう、と運動しました。櫛田ふきさんなど有名な女性問題の研究者を呼んで学習会を開催。会議も半徹夜で何回も開催し、「知を力に」エネルギーを蓄え、婦人部役員が各ブロックに説明にも歩きまし 岩手医労連女性労働学級でリース作りに挑戦(2002年2月) 地域の集会等でも力を発揮(1999年11月) た。当時の役員は口をそろえて、「会議が終わると夜が明けていた」と話しています。そして各支部婦人部で最初に生休を取得したのは、婦人部役員でした。 また、「結婚しても働けるように」、というスローガンも掲げられていました。 1人、2人と出産後も働き続けられるようになり、結婚、出産が徐々に当たり前になりました。当時の運動の中心は、自ら権利を拡大した女性役員で、 子育てで哺乳瓶を持ちながら、あるいは夜勤をして寝ないで地域の会議にも参加していました。 子どもが生まれると、女性労働者が働き続けるためには、保育所が必要になりました。ここでも女性のパワーを発揮。病院の仮眠室で赤ちゃんの保育を自力で行い、病院当局に保育所の必要性を訴えたり、赤ちゃんをおぶって保育所設置のチラシ配布をしました。 |