地域医療の充実のために医師・看護師などの医療従事者の大幅増員などをめざして活動しています
岩手県医療局労働組合
トップページ > 県医労の歴史 > 「看護師増やせ・患者負担減らせ」の要求を(白衣で訴えたナースウェーブ行動)

「看護師増やせ・患者負担減らせ」の要求を(白衣で訴えたナースウェーブ行動)

◆1981年

職員定数4、302人

◆1988年

大幅増員を求める10万人署名開始

◆1989年

101、567名分を県議会に提出
3次の白衣の県庁デモ、5・19時間内集会
白衣の総行動デー岩手県集会・東北6県の医労連が総行動

◆1990年

4月 岩手医労連看護婦集会
5月 ナースウェーブ岩手県集会
ナースウェーブ中央行動
11月 ナースウェーブ岩手県集会
12月 県議会で看護婦の確保対策等についての意見書などが採択

◆1991年

看護婦国際シンポジウム
同東日本連帯集会を盛岡で開催
ナースウェーブ対県交渉、宣伝行動
ナースウェーブ中央集会

◆1992年

職員定数を220人拡大
看護婦確保法、基本指針の制定
その後、毎年ナースウェーブ集会を開催

それぞれの職場での増員と併せて、日本全体の看護師確保も、私たちの運動で実現が可能です。その鍵は、地域に出て、訴えること。白衣でデモ・集会をするナースウェーブ行動は、その象徴です。


 県立病院の職員定数は1981年から十数年間、4、302名に据え置かれたままでした。 医療の高度化・複雑化のもと看護師をはじめとした人員不足は深刻で、 県医労が人間の尊厳の回復と県立病院の充実を求める県民「10万名署名」の取り組みを開始したのは、1988年のことです。「県立病院の職員定数を拡大して!」 の県議会請願署名は、101,576名を集約しました。
 中曽根内閣による医療・社会保障の切り捨て政策の影響で、 全国の医療労 働者も同様に深刻な職場実態に置かれていました。

 県医労の取り組みと、時を同じくして、全国でも日本医労連の運動で「看護婦確保法」制定に向けた国会請願署名(1991年・組合員1人10名目標を突破)

「看護婦を増やせ」と盛岡市内を白衣でデモ行進(2000年5月)


東京・日比谷野外音楽堂を埋め尽くすナースウェーブ参加者(1992年3月)

の運動が大きく広がりました。マスコミ(テレビ、新聞など)も大いに活用し、劣悪で過酷な職場実態を紹介。看護職場は、3K(きつい、汚い、危険) どころか9K職場(3K+休暇がとれない、規則がきびしい、化粧がのらない、薬に頼って生きている、婚期が遅い、給料が安い)と訴え、 流行語大賞(1992年表現部門銀賞 江尻尚子日本医労連委員長が受賞) にも選ばれ、 国民的関心事となりました。白衣の宣伝署名行動やデモ行進などが全国の仲間とともに岩手でも取り組まれ、「看護婦増やせ!」 の世論を築きあげることができたのです。日本医労連は、「看護婦確保法制定」をめざしたこの一連の白衣の行動を、『ナースウェーブ行動』と呼んでいます。

 これら運動の成果として、 県立病院の職員定数枠は1992年2月の県議会で改正(220人増)されました。また国会においては、1992年「看護婦確保法」(6月)と「基本指針」(12月)が制定されました。
 この取り組みを通じ、国の低医療費政策によって起こっている 「人手不足」 と「患者負担増」の問題をはなさず、全国の医療労働者とともに外に出て訴えたことで、大きな成果がかちとれたという教訓を得る事ができました。
 看護闘争は現在も引き継がれ、県医労においても 「看護闘争委員会」 を開催し、職場改善をめざした取り組みをおこなっています。日本医労連においては、「看護師増やせ」「看護制度一本化の実現」「看護合理化反対」を柱に、様々な運動に取り組んでいます。県医労としての運動だけでなく、 岩手医労連、いわて労連、 そして日本医労連などの全国的取り組みを、車の両輪として進めていくことが重要になっています。