それぞれの職場での増員と併せて、日本全体の看護師確保も、私たちの運動で実現が可能です。その鍵は、地域に出て、訴えること。白衣でデモ・集会をするナースウェーブ行動は、その象徴です。 |
県立病院の職員定数は1981年から十数年間、4、302名に据え置かれたままでした。 医療の高度化・複雑化のもと看護師をはじめとした人員不足は深刻で、 県医労が人間の尊厳の回復と県立病院の充実を求める県民「10万名署名」の取り組みを開始したのは、1988年のことです。「県立病院の職員定数を拡大して!」 の県議会請願署名は、101,576名を集約しました。 県医労の取り組みと、時を同じくして、全国でも日本医労連の運動で「看護婦確保法」制定に向けた国会請願署名(1991年・組合員1人10名目標を突破) 「看護婦を増やせ」と盛岡市内を白衣でデモ行進(2000年5月) 東京・日比谷野外音楽堂を埋め尽くすナースウェーブ参加者(1992年3月) の運動が大きく広がりました。マスコミ(テレビ、新聞など)も大いに活用し、劣悪で過酷な職場実態を紹介。看護職場は、3K(きつい、汚い、危険) どころか9K職場(3K+休暇がとれない、規則がきびしい、化粧がのらない、薬に頼って生きている、婚期が遅い、給料が安い)と訴え、 流行語大賞(1992年表現部門銀賞 江尻尚子日本医労連委員長が受賞) にも選ばれ、 国民的関心事となりました。白衣の宣伝署名行動やデモ行進などが全国の仲間とともに岩手でも取り組まれ、「看護婦増やせ!」 の世論を築きあげることができたのです。日本医労連は、「看護婦確保法制定」をめざしたこの一連の白衣の行動を、『ナースウェーブ行動』と呼んでいます。 これら運動の成果として、 県立病院の職員定数枠は1992年2月の県議会で改正(220人増)されました。また国会においては、1992年「看護婦確保法」(6月)と「基本指針」(12月)が制定されました。 |