どこで働くか、ということは労働者にとって 大事な労働条件であり、「昇任基準に達した者全員の昇任」など校正で民主的な人事異動の実現に引き続き取り組んでいきます。 長距離通勤、単身赴任の年数制限などが今後の課題です。 <確認書とは> |
1950年11月に、国保連、厚生連など運営主体がばらばらだった県内の病院が県立病院としてまとめられることになりました。看護職員の採用など、 各病院で行われていたものが、県 ・ 医療局に集中(医療局採用)されるようになりました。初めての大規模な人事異動がされたのが1957年です。 新採用者の看護職員の配置と合わせて、40人もの異動内示を行い、県医労が実態調査をすると結婚した助産婦、看護婦をねらい打ちに、8支部12人にものぼることが判明しました。いまでいう「辞めろ人事」です。 医療局長室の前に座り込み、 団体交渉を断続的に実施。正当な労働組合活動に、 盛岡警察署の刑事が「不当占拠だ」と介入してきました。 最終的には異動に伴う本人の条件を当局が認めるなどの前進回答を引き出し、6日間にわたる闘争は終結しました。 このたたかいを教訓に組合として、 「人事異動に関する要求書」 の提出を決め、現在にもつながっています。 医療局当局は「人事権は団体交渉項目ではない」という主張を繰り返し行いましたが、 「 組合員の生活と労働条件を守るのは労働組合の基本的任務だ 」「どこでどう働くかは、 大事な労働条件である」と団体交渉の席に着かせました。 また、1965年には採用時だけに提出していた「身上明細書」を毎年出すよう規則を一方的に改悪。 当局は人事異動の希望を実現するためだとしましたが、 勤務評定、さらには思想調査の狙いもうかがえ、職場討議を経て、県医労で回収。以後、「実施をしない」ことを追及し、「身上明細書」は各支部で回収し、白紙で提出してきました。 1995年には、人事異動に関する確認書(別記)と覚書、団体交渉確認書を締結。併せて、職員状況報告書及び異動希望調書の中身を協議し、記入 ・ 提出していくこととしました。 また、内示即発令ではなく、内々示を出させて、 事前に本人の意向を確認することなどを覚書に明記させています。 現在、異動希望者は、人事異動に関する要求書を県医労で作成し、それに基づき、本部・支部で交渉し、最終段階では、不当人事撤回中央決起集会や職員課長との直接交渉などで、異動希望の実現のためたたかっています。 これは、他の労働組合とは違った大きな特長となっています。また、医療局が人事異動(主任発令などを含む)を巧妙に利用し、労務管理をしていることに注意することが必要です。 |