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岩手県医療局労働組合
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住民の声を無視した統合、廃止に反対(住民とともに、大きな運動)

◆1950年

県立病院発足
25病院40診療所

◆1951年

岩手県立病院整備計画策定
東山病院と千厩地方病院を統合

◆1954年

地方公営企業法の一部適用
世田米病院(現・住田地域診療センター)の町直営要望が出されたが、運動で中止させる

◆1959年

宮古共済病院と宮古地方病院を統合し、宮古病院を開設

◆1960年

県立病院整備10ヵ年計画策定

◆1967年

整備7カ年計画を策定 長坂、藤沢病院の廃止、縮小を計画
現地闘争委員会を設置し、 住民と運動
福岡、一戸病院の統合が発表

◆1970年

久慈病院と市立久慈中央病院の統合が秘密裏に進行し、建設・統合

◆1995年

一戸、北陽病院の統合計画が発表
アンケート、署名などに取り組む

◆2001年

花巻厚生、北上病院の統合が発表

病院の統合・廃止は、「県下にあまねく医療の均てんを」 という県立病院の創業の精神に反するものであり、 住民・患者、 地域にとって、大変な問題です。地域にどのような病院が必要なのか、県政の主人公たる県民が自ら選択でさるような運動をすすめていく必要があります。


  発足当時の県立病院には、25病院と40の診療所がありました。 しかし、財政的な困難や医師の不在などで、きびしい運営が迫られていました。1953年に町村合併促進法が制定され、県内でもその後4年間で3市32町1546村で合併が行われ、その過程で自力で病院、診療所を持ちたいという声が出されました。医療局は、この声を利用し、診療所の町村移管をすすめました。県医労は、労働者の身分保障を本人の希望どおり実現させることはできましたが、地元移管・廃止については有効なたたかいを組織できませんでした。

 県医労が最初に取り組んだ移管阻止の運動は、世田米病院(現・住田地域診療センター)の町移管問題でした。世田米町国保運営協議会は、町の直営診療所設立を要望、県立世田米病院を町に移管するよう医療局に要望書を提出しま

藤沢・長坂統廃合反対街頭宣伝運動(1967年9月頃 大船渡)


一戸・北陽病院の統合反対で地域署名行動(1996年2月)

した。県医労では、中央執行委員会で協議。町に移管しても医師不足は解消されず、町の財政では医療を守る砦の役割は果たせないことなどから反対することを確認。世田米町(現・住田町)を訪問し、懇談する中で、町議会として移管の考えを取り消し、移管は阻止されました。
 その後、長坂病院の廃止、藤澤病院の診療所への格下げ問題では、県医労として現地に闘争委員会を設置し、町民や議員へ廃止反対の訴えをし、「長坂病院廃止反対町民会議」を結成。公民館長、婦人会長、商工会代表などが役員として参加し、県への陳情団の派遣、 部落懇談会の開催、 町民大会、 署名、 ニュースの発行などを行いました。最終的には、県議会で自民党、無所属クラブが強行採決し、廃止・格下げが決定しましたが、住民とともに運動する点で、大きな教訓を得ることができました。
 1967年には、福岡病院(現・二戸病院)と一戸病院の統合が発表され、 一戸町、福岡町(現在二戸市)で誘致合戦が行われました。県医労では誘致合戦ではなく、町民のための整備充実をと運動し、統合計画を撤回させました。また、1970年には県立久慈病院と市立久慈中央病院の統合が、 自治省(当時)の圧力で進められました。「医療を守る市民会議」が結成され、市民とともに反対運動を行い、メーデーを上回るデモ行進などを行いました。
 1995年には、 一戸病院と北陽病院の統合が発表され、 アンケートを取る中で、それぞれの充実を求める意見が多く、町への請願署名、地域署名、医療懇談会を開催し、統合反対の運動をしました。最終的には、統合となりましたが、新病院の充実へ、町民の声を活かすように交渉してきました。