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岩手県医療局労働組合
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提言運動、アンケートを通して(住民の期待に応える私たちの病院)

◆1981年

3月 第二次臨時行政調査会発足
8月 鈴木内閣が「行革大綱」を決定
日本医労協(当時)など6団体が呼びかけ、臨調路線に反対し、 国民生活と権利を守る各界連絡会議が発足
10月 医療・福祉切り捨ての「行革」粉砕県内キャラバン開始
11月 「行革」 一括法案を共産・社会反対、自・公・民の賛成多数で可決、成立

◆1982年

2月 第87回中央委員会に「提言」=略称・県立病院強化方針案を提案
3月 県立病院強化方針案の学習会を各支部で開催
6月 第36回定期大会で「提言」を採択
医療局長、県議会議長、各会派に提出
7月 中村知事に提出
8月 地方自治協会が「県版行革」の調査開始
9月 「提言」 実現県内キャラバン
政府が人勧凍結を決定、「行革大綱」を閣議決定
「提言」の実現をめざす署名が10万人を突破

◆1983年

1月 地方自治協会の「県版行革」報告=総論まとまる
4月 県民アンケートを開始
7月 アンケート結果を発表
12月 県議会で請願採択

県立病院は、45床から730床まで、地域で唯一の病院からセンター病院まで、27病院(当時)があり、それぞれ大事な役割を果たしています。その歴史を振り返ると、いずれも住民が必要に迫られて作った病院が原型となっています。いつでも、だれでも、安心してかかれる県立病院をどうするかは、上から決めるのではなく、住民の声に耳を傾け、共に協力して発展させていくことが求められています。


 施設数で全国一を誇る岩手県立病院も、市町村に移管するという危機がありました。1981年の第二次臨時行政調査会が出した答申が引き金で、国政においては、防衛力の増強、国鉄・電電公社の民営化、社会保障予算等の削減、地方も含めた行政機構の再編などをめざしていました。
 この答申が出されると、これによって社会保障や県立病院がどうなるかを県医労中央執行委員会で討議しました。当時の県立病院は、81年度に約21億円の単年度赤字を生み、累積で約82億の赤字を抱え、県営医療に厳しい「合理化」案が出されるのではないか、という結論になりました。こうした点から中央執行委員会では、予想される「合理化」攻撃を「座して待つより、みすから県立病院のあ

1988年の「10万署名」(1968年11月)で地域を回る組合員(1988年11月)


 

るべき姿を県民に訴えていくことが大事である」とし、 約半年間の組織内の議論を経て、 翌82年2月の中央委員会に「岩手県立病院を真に県民医療を守る”医療・保健センター”として発展させるための提言」案を提起し、次期定期大会までに職場討議を起こすことを決定。6月の定期大会で満場一致で承認されました。

 県医労では、「提言」の実現を求め、岩手県議会議長、 県議会全会派を訪問、説明するとともに、当時の中村知事にも説明の上、提出しました。さらに、医療局長、各市町村長、市町村議会議長、県選出国会議員に対しても、中央執行委員を先頭に、各支部役員が分担し、全県で要請行動を行いました。 この「提言」はマスコミからも注目され、県民各層から意見や激励が寄せられました。
 しかし、県当局は「県版行革」推進。「中核となる公立病院は県営とし、 その他の公立病院は市町村営」との報告も出されました。この報告をうち破るため、「県民医療アンケート」を実施。 有権者の2%を無作為に抽出した1万6千人を対象にし、71%を集約。87.5%が県立病院の存続を支持する結果となりました。こうした運動によって、「県立病院の市町村等への移管に反対し、拡充を求める請願」が県議会で全会一致で採択され、県医労の運動方針として「全28病院を残す」ことを確立させました。