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岩手県医療局労働組合
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権力の弾圧に抗して闘った県医労(仲間を大切に、思想・信条の自由を守る)

◆1945年

8月6日広島へ、9日長崎へ原爆投下
8月15日、第2次世界大戦敗戦

◆1946年

11月3日、日本国憲法公布(翌年5月3日施行)

◆1949年

下山、三鷹、松川事件、レッドパージ

◆1952年

藤沢書記が政令325号違反で逮捕

◆1960年

60年安保闘争、県内各地に地域共闘結成

◆1963年

県庁第2庁舎火災で公安警察が策動

◆1964年

千厩支部で組合分裂、破壊攻撃

◆1965年

南光支部の団体交渉に機動隊が待機

◆1967年

医療局が各病院長に支部役員の思想調査を指示

 医療局による一人ひとりへの文書による組合攻撃など、権力による弾圧は巧妙にやられます。こうした弾圧には、ただちに国民救援会、顧問弁護士等と連絡を取り合い、全力で反撃することが必要です。また、労働組合や民主団体等を敵視するような政府を変えることが大切です。

 県医労は、1951年に結成されましが、当時の社会情勢は、「敗戦」「アメリカ軍の占領」という戦後の激動期でした。これに先立つ1941年は、下山事件、三鷹事件、松川事件など国鉄総裁謀殺事件や列車転覆事件が相次ぎました。当時、アメリカ占領軍(GHQ)と日本の保守勢力(第三次吉田内閣)は、100万人を超える労働者の首切り(失業者170万人以上)を計画。 一方、総選挙で日本共産党が、4議席から一挙に35議席と躍進する等の動きもありました。 共産党は当時労働組合に大きな影響力を持っていました。
 社会不安は、「主として共産主義の煽動による」、とか、「共産党は、虚偽とテロ

1973年統一ストに対する機動隊(1973年月 県庁前)

 

弾圧から国民を守るために組織された

日本国民救援会の冊子

を戦法に社会不安をあおる」等と、吉田首相を先頭に、労働組合と共産党弾圧のために、この事件を徹底的に利用しました。三事件とも真実(真犯人)は、 今もって明らかではありませんが、共産党員や労働組合員が全く関係ないのに犯人にデッチ上げられたことだけは、裁判の結果などから確かになっています。

 この謀略により共産党は国民の支持を失い、労働運動は力を奪われました。その結果、1949(昭和24)年6月から一年間で約100万人の労働者が職場を追われ、権力の大量首切りは成功することになり、レッドパージヘの道が開かれました。GHQの指令によって、共産党員およびその同調者を、公職や民間企業から罷免・解雇した政策をレッド・パージと言います。
 50年に入ると、軍国主義者・超国家主義者を対象とした46年公布の公職追放令が、共産党員とその同調者に対象を転換し、共産党幹部24名追放、『アカハタ』幹部17名追放が指令されました。
 これに続いてマスコミでもパージがはじまり、 民間企業や官公庁、大学に広がって、最終的には1万2千人余りが職場を首になりました。
 県医労にも、この反動の波が押し寄せてきました。
 組合を結成して、1年もたたない1952年3月28日のことです組合本部に勤務している1人の書記が、「平和と独立」という日本共産党の新聞を購読しているという理由で逮捕されてしまったのです。県医労本部には医療局職員課からも、書記の解雇を求め圧力をかけてくる始末でした。組合書記の逮捕をめぐり、中央執行委員会は「解雇すべき」という意見と「解雇すべきでない」の意見に分かれ話し合いが続きました。そして導き出さた一つの方向は、「憲法19条には、『思想及び良心の自由はこれを侵してはならない』と定められている。今、思想・信条の自由を侵されている組合員がいる。それが警察・検察であろうと『憲法違反だ』とたたかわねばならない」という結論でした。その翌日、組合役員は分担をして、医療局、警察・検察に抗議行動を起こしたのです。
 このことは第2回定期大会でも議論を呼び、執行部の方針提案が承認されました。
 権力による労働者への弾圧が全国で行われたこの時代、「思想・信条の自由、政党支持の自由」の方針を確立し、権力に抗してたたかった県医労がありました。だからこそ労使協調ではない、労働者・患者の立場を貫く県医労を築くことができたのではないでしょうか。