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岩手県医療局労働組合
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夜勤制限のたたかい(十五日夜勤から八日夜勤、そして六日夜勤へ)

◆1951年 県医労結成

週48時間労働で、月15回夜勤し(日勤は12日)でした(下表参照)

◆1961年

看護婦、技能職に土曜半ドン(週44時間労働)実現

◆1962年

臨時職員から278人を本採用実現

◆1965年

人事院が夜勤制限の判定を出す

◆1966年

114人の増員で夜勤回数を12回に(別表参照)

◆1968年

新潟県職労医療部会が組合ダイヤで8日夜勤実現

◆1968年11月1日

組合ダイヤ(下表参照)突入寸前に地労委に当局が調停申請

◆1969年

3年で262人の増員。翌年から8日夜勤を実現

1965年に出された人事院判定は、「夜勤は勤務日の3分1」という考え方を取り、当時は月88日、とされました。週休二日制の現在では、勤務日の3分の1とは「月6日」となります。また、労働医学的にも夜勤は月6日が限度と言われています  日本医労連では、夜勤体制は3人以上、夜勤日数は6日以内、週32時間労働にすべきだと運動しています。


 県医労が結成された1951年当時は、一人夜勤が当たり前。
それだけでなく、夜勤回数は月15日にもなっていました。そして全寮制。
結婚すれば退職、という中で、まさに病院と寮を往復するだけの生活を余儀なくされていました。
 全国で夜勤制限を求める運動が起こりました。1963年4月に全医労(国立病院の労働組合)が、看護婦の3人に1人が、流産や異常出産を経験、貧血などの夜勤病が増加するなかで、人事院に対して「夜勤制限に関する行政措置要求」を提出。2年余の調査を経て、1965年5月に「夜勤は複数で一人平均月8日以内」という「判定」を出させたのが大きなきっかけでした。
 県医労ではこれを武器に、この年の秋・年末闘争で、1966年4月から114人の増員で、月12回以内の夜勤にさせました。

地労委による夜勤実態調査(1968年11月)


岩手県医療研究集会で夜勤問題を討議(2000年7月)

 この運動が、新潟の仲間を励まし、1968年、新潟県職労医療部会では、「組合ダイヤ(労働組合が自主的に作成した、月8日以上の夜勤をしない勤務割)」でたたかい、「人事院判定を三ヵ年で実施する」ことを認めさせました。
  さらに、県医労ではこのたたかいに学び、東北各県から延ベ1500人の看護婦を岩手に派遣するという支援も受け、11月1日からの「組合ダイヤ」突入を予定していましたが、当局による岩手県地方労働委員会(地労委)への調停申し入れを受け延期。
  同月16日、深夜勤務からの実力行使に入る1時間前に、こんどは地労委から「調停作業を徹夜で行い、明日の昼頃までには調停案を出したいので実力行使は待って欲しい」と連絡かあり、再度延期。翌日の調停により、3年間で262人の増員で、複数・月8日以内の夜勤をかちとりました。
  このたたかいは「ニッパチ闘争」と呼ばれ、全国に広がりました。
こうした全国の運動によって、1992年には看護婦確保法・基本指針で、「月8回以内の夜勤体制に向けて積極的に努力する」ことが定められました。